本館3階 日本車展示ゾーンに展示されている自動車の見学を終えました。
これより、本館3階 日本車ゾーンから、本館2階 欧米車展示ゾーン、本館1階 エントランス シンボルゾーンへと下るエスカレーターに乗り、本館1階 エントランス シンボルゾーンへと戻ります。
本館1階 エントランス シンボルゾーンへと戻って来ました。
これより、本館と新館を結ぶ連絡通路を進み、新館へと進みます。
「A」 文明開化、自動車の移入、そして国産車の誕生 (明治〜昭和初期 前史ゾーン)
大正末期から昭和初期にかけ、フォード社とGM社が日本における組立生産を開始、「フォード」と「シボレー」が大幅に普及する。 その後、志をもった技術者たちによって国産車づくりが進められ、ダットサンやトヨダAA型乗用車が誕生する。
「B」 晴れた、空 (1945〜1950年 戦後ゾーン)
第二次世界大戦が終わり、一面焼け野原となった日本。 わずかに残った代燃トラックや自転車、バイクなどが走っていた路上に颯爽と登場したのが、進駐軍の兵士たちが乗るジープや派手なアメリカ車であった。 豊富な物資やジャズの響きはまさにアメリカの文化そのものであり、絶望的な気分に落ち込んでいた日本人にはまさにあこがれの世界といえたのだ。 そしてここから、アメリカのような豊な生活の実現を目指して立ち上がろうとする日本人たちの努力がはじまった。
進駐軍の大量物資におどろいた
全国各地に駐留した進駐軍が持ち込んできた大量の物資や車を見て、日本人の「モノ」と「車」に対する認識が一気に変わったことは言うまでもない。進駐軍兵士の為の売店兼両替所である「PX」に溢れる物資は、まさにアメリカンライフを象徴していた。
進駐軍が大量に持ち込んだ4輪駆動車。 第二次世界大戦の直前の1941年に軍用偵察や連絡を目的としてフォード社およびウィリス社両社によって生産された。 展示車は、最初に日本本土に上陸し、情報収集、撮影などを行った車両のロゴマークを付している。
それは焼け跡からはじまった
戦争は特に都市部を焼け野原にし、文字通り「ゼロからの出発」となった日本。 他方、農村は平和を取り戻し戦前の暮らしを再開しようとしていた。 50年前の農村は、様々な生活道具とともにスタートしたのである。
名古屋市内にあった株式会社水野鉄工所が、昭和初期から昭和15年にかけて約3,000台生産したユニークな三輪トラック。 前輪駆動で、前輪の左にエンジンとトランスミッションを、右にラジエーターと燃料タンクを配置している。
第二次世界大戦後、軍需産業が新たな転身をはかるなかで、主として航空機メーカーがスクーター生産を開始し、初期の二輪車ブームを招くきっかけとなった。このシルバーピジョン(平和を祈り「銀の鳩」の意)は、戦闘機の車輪や廃材を利用してつくられ、富士重工のラビット号と人気を二分したものである。
第二次世界大戦後初のフォード社のニューモデルで、フラッシュサイドの流れるようなざん新なデザインが、当時大きな話題となった。 また、日本へもいち早く持ち込まれ、多くの日本人は驚きをもってその新鮮さあふれるニューモデルに見入ったということである。
第二次世界大戦後、軍需産業が新たな転身をはかるなかで、主として航空機メーカーがスクーター生産を開始し、初期の二輪車ブームを招くきっかけとなった。 このシルバーピジョン(平和を祈り「銀の鳩」の意)は、戦闘機の車輪や廃材を利用してつくられ、富士重工のラビット号と人気を二分したものである。
戦中、戦後のガソリン不足に対応して、「薪ガス発生装置」を搭載したボンネット型トラック。 ガソリン車に比べて力不足はぬぐいようもなく、坂道になるとみんなであと押ししたという。 ベース車両はトヨタBM型トラックで、2万6,000台ほど生産された当時の主力車種である。
自転車は貴重品
終戦直後、庶民の足はもっぱら自転車やスクーター、バイクであった。 一般車に加え、運搬車、女性車などの区別があり、それぞれに大きさやデザインも異なっていた。 移動の手段として、また運搬の手段として、当時の生活の中で活躍していたのだ。
はたらく車の目立つ町
昭和20〜30年代、車の大半は消防車や運送店のトラックなど「はたらく車」であり、ようやく復興のめどが立った戦後の日本を力強く支える原動力だった。 デコボコ道を土ぼこりをあげて走り抜けていく「はたらく車」があちこちで見られたのだ。
アメリカンスタイルを取り入れた、小型トラック。 フロントウインドーが、二分割になっているのが、当時の材料や製作技術の水準を示しているように思われる。
トヨタトラック(FH24型)ベースの消防車。 実際に長い間、町の防災の要として大切に使われていた車両である。
モータースは車のお医者さま
町にバイクや車が増えるにつれて、その修理を請け負う「モータース」もたくさん出現した。 車の信頼性も十分でなく道路事情も悪かった当時は、町のモータースが修理を一手に引き受け「車のお医者さま」として活躍したのである。
マスターラインは、乗用車なみの乗り心地を備えた商用車として、人気を集めた。 このライトバンのほか、ピックアップ、ダブルキャブピックアップの3タイプがあり、展示のように、町のモータースでもサービスカーなどに使われたことだろう。
昭和20年代後半から30年代初めにかけて、自転車にエンジンを取り付けて走る原動機付き自転車がはやった。
はじめて電気でご飯を炊いた日
経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれたのは、終戦から10年ほど経過した1956年(昭和31年)のことである。 「三種の神器」がもてはやされ、空前の家庭電化ブームが訪れる中、人々の生活も大きく変わろうとしていた。
“白いタンクに赤いエンジン”のキャッチフレーズで人気を呼んだ50ccのエンジン付き自転車。 当時としては、画期的な通信販売方式を採用したことも功を奏し、バイクブームのなかで人気車種となった。
三輪トラックといえば1トン未満の車が多かったこのころとしては珍しい2トン積みの三輪トラック。 エンジンはV型2気筒で、スターターモーター付き。
三輪小型トラックが全盛だった1954年(昭和29年)から、トヨエースは実用性と低価格をモットーに発売され、一躍人気を呼び、「トラックの国民車」と呼ばれた。 また、この車の普及が、トラックが三輪から四輪に転換するきっかけになった。
メイド・イン・ジャパン リーダーは国産カメラ
昭和30年代の中頃、「日本製カメラ」は一躍世界のベストセラーにのし上がった。 性能の良さと価格の安さはたちまち評判となり、日本製品のイメージづくりにも一役買ったといえる。 日本製自動車が欧米諸国へ輸出されるずっと前のことである。
本格的な国産乗用車 トヨペットクラウンは当初、個人所有のオーナーカーとして発売されたが、タクシーにも活用され活躍した。 展示車は当時のタクシーを再現したもので、初乗り料金は80円。 まだ屋上灯もなかった。
使いやすく、経済的な実用車として評価が高かった小型自動車。 当時、わが国でも間近となった高速道路時代をめざし、高速走行を意識したクルマづくりが進められた。 ダットサンは別名“医者のダットサン”と呼ばれ、開業医が往診などに活用したということである。
中流意識のめばえ
高度経済成長のなかで人々の生活は飛躍的に向上し、多くの日本人が中流意識を持つようになった。 世は「大量生産、大量消費」の時代を迎え、いわゆる「3C」が消費のトレンドとなっていく。
広くて、頑丈なスチールの荷台をもったコロナベースのピックアップトラック。 自動車の用途が広がってきたことに対応して、ライトバンとピックアップが発売された。
初代ミゼットはテレビ番組をきっかけに爆発的な人気を得た。 展示車は、シリーズ最終モデルで、スタイルは従来型とほぼ同じだが、丸ハンドルを採用している点が特徴である。
連続運転性能にすぐれた、当時の人気車種の一つであった。
軽自動車が広く普及していくなか、その用途も多様化してきた。 この車は出力、加速、頑丈さなどに定評のあったスズキキャリィをベースに、バンの機能を加えたものである。 小回りがきくため、戸口から戸口への小運搬に活躍した。
「走るベストセラーに優美なデザイン」がキャッチフレーズの2代目ブルーバードは、モノコックボディで、美しいヨーロピアンデザインが特徴であった。
テレビっ子時代
1960年代、現代にもつながる子ども文化の象徴「マンガ雑誌」が相次いで創刊され、またテレビの普及で多数の番組キャラクター玩具が大流行した。 高度経済成長の恩恵は大人、子どもを問わず日本人全体に広がっていったのである。
「E」 マイカーを手に入れた頃 (1965〜1975年 マイカーゾーン)
後にマイカー元年と呼ばれたのは1966年(昭和41年)のことである。 日産のダットサン サニー、トヨタ カローラといった大衆車が相次いで発表され、急速に普及していったのだ。 クルマのある生活は日本人の生活リズムを一変させ、社会の仕組みそのものを変貌させていく。 またこの年は、ビートルズが来日、ミニスカートの流行、後の若者文化の起点となる出来事が数多く起こっている。 若者の好みが時代のうねりを加速させ、自己主張のシンボルとして「ファッション」が重要な要素となりはじめた。
若者文化ブーム
若者文化の象徴はその独特なファッションであった。 当時、ロングヘヤーにベルボトムジーンズでギターをかき鳴らす若者があちこちに見られた。 またおしゃれに敏感な若い女性に人気の雑誌が相次いで創刊され、若者ファッションをリードしたのである。
1966年(昭和41年)に誕生したトヨタの大衆車。 ニッサン サニーとともに人気を二分し、ベストセラーカーとなった。
余白
消費は美徳といわれた時代
1960年代から70年代、高度経済成長は絶頂期を迎える。いたるところに商品が溢れ「消費は美徳」ともてはやされた。 自動車をはじめ、化粧品などの宣伝広告がテレビ、新聞など様々なメディアから流れ、大量生産・大量消費社会をリードしたのだった。
わが国の2ボックス車の先駆けとなった車。 アメリカやヨーロッパにも輸出され、特にヨーロッパでは、1973年末に日本車としては初めて「ヨーロッパ カー オブ ザ イヤー」で3位に選ばれるなど、高い評価を得た。
DOHC2000ccの高性能エンジンを搭載し、スポーティ ドライブを実現した。 同時に、サーフボードやキャンプ用具など、大型レジャー用品の積載も可能にしたリフトバック車としたことで、レジャー志向の若者に絶大な人気を得たのである。
「F」 ステップアップ (1975年〜 多様化ゾーン)
衣食住のすべてにわたってモノがあふれた高度経済成長ののち、2度のオイルショックを経て、日本は低成長時代を迎える。 バブル景気とその崩壊を体験し、情報化した社会は価値観を多様化させ、日本人のライフスタイルも大きく変化していく。 そして21世紀。 新しい時代にふさわしい「環境」に配慮した地球にやさしいクルマづくりがより一層求められる時代である。 わたしたちの生活とクルマは切り離せない関係となっている。 そしてまた、新たな関係も築かれていくことになるだろう。
豊かさと楽しみをもとめた日々
衣食住のすべてにわたってモノがあふれはじめ、物流の効率化や高度情報化社会の深まりに伴って、私たちのライフスタイルもさまざまなあり方を求めるようになった。 そして21世紀のいま。 新しい時代にふさわしい「環境」に配慮した地球にやさしいクルマづくりがより一層求められている。
新館2階 展示ゾーンに展示されている自動車の見学を終えました。
新館1階は、”キッズガレージ”、”ミュージアムショップ”、”カフェテリア”が設置されていました。
新館1階出口ゲート付近には、2005年(平成17年)3月25日〜9月25日の期間に開催された”愛・地球博 EXPO 2005”の”トヨタグループ館”で展示されていた”i-unit”が展示されていました。
”トヨタ博物館”の館内に展示されている全ての自動車の見学を終えました。
新館1階出口ゲートから出て、新館を後にする事に・・・。
新館1階出口ゲートから出て新館を後にし、外に出ると既に日が暮れていました・・・。
見学時間は約4時間30分・・・、疲れました。
でも、まだまだ見学し足りない気がします。
また訪れる機会を探りつつ、次の目的地へ向け、”トヨタ博物館”を出発しました。