快進社自働車工場

1904年(明治37年)、日本で初めて自動車が製造された。フランスで世界初の自動車が製造されてから135年後の事であった。
この国産車第1号は蒸気自動車で、岡山県で電気工場を経営していた技術者の山羽虎夫が製造したもので2気筒25馬力を持っていたが、6kmの実験走行をしただけで実用化には程遠い存在であった。

1907年(明治40年)、吉田真太郎が設立した東京自動車製作所によって国産ガソリン車第1号が製造された。ガタクリーガタクリー走るからタクリー号と命名された。多摩川畔で行われたテスト走行では好成績を収めたものの、日本国内は欧米崇拝の風潮の時期にあり1908年には姿を消してしまった。


1911年(明治44年)、極小さな町工場だが日本の風土に合った自動車を自分達の手で製造し、それを輸出もしようという壮大な構想の下に誕生する。
これが快進社自働社工場である。

完成車

快進社自動車工場の完成シャシと工場員達

快進社自働車工場は工場員写真右より、工場主の橋本増治郎、工場員の倉垣知也、本田新蔵、小林栄司、藤井鉄造、福田龍男、徳武豊吉、田中市郎の8名で開発・製造をおこなっていた。

橋本増治郎は1875年(明治8年)、愛知県岡崎市で誕生する。
1891年(明治24年)、東京工業学校へ入学。この学校は日本の自動車黎明期に活躍する多くの人達が卒業している。この学校を橋本増治郎は首席で卒業している。
1902年(明治35年)、東京工業学校 手嶋精一校長の推薦により農商務省海外実業練習生に選ばれる。これから3年間、アメリカ合衆国ニューヨーク州のマッキントッシュ社で蒸気機関の設計・製造を学んだ。
しかし、技術革新が急速に進み、大型の蒸気機関から小型の内燃機関へ、蒸気自動車・電気自動車からガソリン自動車へ移り変わって行く時期でもあった。これまで学んで来た蒸気機関が時代遅れな物になってしまった事に、橋本増治郎は大きな衝撃を感じてしまう。
その後、日露戦争を契機に帰国し、九州炭鉱汽船株式会社に技師長として入社することとなる。

橋本増治郎(60歳頃)

田 健治郎

青山 禄郎

竹内 明太郎

1911年(明治44年)4月,、当時勤務していた九州炭鉱汽船株式会社を退職し、自分の目標に向かって快進社自働車工場を東京都麻布広尾に設立する。
ただ、九州炭鉱汽船株式会社での働きぶりは、飛躍的に有能で信頼も厚かった。この会社を退職するにあたっては経営者 田 健治郎 自らが説得し、留まる様に尽力したが橋本増治郎の意志は固く留まる事は無かった。
それでも、橋本増治郎の事を信頼しているものが有志となり、快進社自働社工場を設立するならと多大な資金的援助を行った。九州炭鉱汽船株式会社の社長で明治憲法下での男爵 田健治郎、田 健治郎の部下で逓信省技師 青山 禄郎、田 健治郎の部下で後の第二次世界大戦後初の内閣総理大臣 吉田 茂の実兄 竹内 明太郎である。快進社自働社工場の土地は敷地140坪、建坪49坪であったが吉田 茂の所有地であった。

1914年(大正3年)3月、水冷V型2気筒10HPガソリンエンジン車を完成させ、同年東京上野公園で開催された大正博覧会に出品し銅賞を受賞している。
この自動車はタイヤ、マグネトー、スパークプラグ、ボールベアリングを除き全て国産の製品を使用したといわれている。
この博覧会に自動車を出品するに当たり、今まで資金等で協力してくれていた田 健治郎(D)、青山 禄郎(A)、竹内 明太郎(T)に感謝しDAT号(脱兎号)と名付けた。
これが、DATが世界に響いた最初の瞬間であった。

その後、飛躍の機会を狙っていた橋本増治郎は、1918年(大正7年)8月に東京都豊島区長崎村に敷地6000坪、建坪600坪、専用機器も充実した本格的な工場を建て、会社の名称も株式会社 快進社に変更する。ここでもDATの3人が協力している。
ここで本格的に自動車を生産するのだが、乗用車の主な顧客は上流階級の人が多く、これらの人々の欧米崇拝意識は強く、また欧米の自動車よりダットの方が信頼性と性能が劣り、値段が高かったからなかなか売れず、経営も多難を極めた。

これにより経営方針を国家的保護の厚い軍用保護トラックの製造に転換する事を決意する。
1922年(大正11年)、ダット41型をトラックに改造し陸軍に申請するが不合格となってしまう。ボルト、ナットが軍の規格と違ったためであった。軍は独特なネジサイズを使用し、自動車の修理に市販の部品が使えない不合理な物であった。橋本増治郎がこれに反論、陸軍も橋本増治郎の主張を受け入れネジ規格を1924年(大正13年)に変更している。
これにより1924年(大正13年)10月6日、ダット41型ベースの1t積みダット・トラックが甲種軍用保護自動車の資格を取得した。

1914年(大正3年)〜1918年(大正7年)の第一次世界大戦では戦争成金が多く出たが、この戦争後は日本経済は深刻な不況へと落ち込む事となる。これにより株式会社 快進社も6万円迄減資していたが、1923年(大正12年)9月1日に東京を襲った関東大震災に追い討ちをかけられ、1925年(大正14年)7月21日に経営不振のため株式会社 快進社は解散、合資会社 ダット自動車商会を設立する事となる。

その後細々とやっていたが1926年(大正15年)9月2日、大阪の実用自動車製造株式会社と合併し、ダット自動車製造株式会社を設立している。