明治末期から大正初期にかけて、アメリカから
曲芸飛行家が相次いで来日し、各地で飛行を
披露した時期があった。なかでも1916年(大正
5年)頃来日したアート・スミスの人気は絶大で
昼夜関係無しで話題となっていた。
このアート・スミスの成功に魅せられて有能な
航空機、電気、生産技術者が1人来日した。
この人がウィリアム・R・ゴーハムであり、1918
年(大正7年)8月の事である。

ウィリアム・R・ゴーハムは、日本で飛行機及び
航空エンジンを製作する目的で、家族と飛行
家を伴い来日した。
ところがライバルの登場や、第一次世界大戦
後の日本経済の不況により、航空機の分野で
は成功できなかった。

これにより、来日するに当たり世話になってい
たプロモーターで片足が不自由な櫛引 弓人の
ためにハレー・ダビットソン製のバイク用エンジ
ンを搭載した2人乗3輪自動車を製作し贈った。

ウィリアム・R・ゴーハム(右)と櫛引 弓人(左)

ウィリアム・R・ゴーハムはこの小型の3輪自動車を日本で生産する事を計画し、各方面へ働きかける。
これに注目したのが関西財界人の久保田鉄工 社長の久保田 権四郎と娘婿 久保田 篤次郎で、他の関西財界人にも呼びかけ発起人8名、当時としては巨額の100万円の資金が投じられ1919年(大正8年)12月5日、実用自動車製造株式会社が設立された。

ゴルハム式実用自動車

実用自動車製造のゴルハム式実用自動車(3輪自動車)は、ヨーロッパで1910年〜1920年頃に大流行したバイクの一種である。
ゴルハム式は空冷V型2気筒1200cc 7HP(課税上の算定数値)と簡単なフリクション・ドライブ式トランスミッションによりディファレンシャル装置の無いリヤホイールシャフトの片側をドライブチェーンで駆動し、舵棒を使用した舵取り装置が取り付けられた、フロントホイール1輪、リヤホイール2輪の3輪自動車である。

実用自動車では、久保田鉄工から来た若い技術者の後藤 敬義がウィリアム・R・ゴーハムの助手として就き、後藤 敬義は自動車設計・製造技術を急速に習得し、後年ダットサン誕生に当たり、主任技師となる礎を築く事となる。

ゴルハム式実用自動車は1919年(大正8年)10月より月産30台の規模で生産を開始したが、車両の安定性が悪くよく転倒してしまうので、後藤 敬義はこれをベースにしてフロントホイールを2輪として4輪自動車に改良、生産を開始した。しかし、舵取り装置はまだ舵棒を使用したままだった。

1923年(大正12年)には後藤 敬義がディファレンシャルを装着しリヤシャフトをシャフトドライブする本格的な4輪自動車を開発し生産を開始した。
この自動車はゴルハム式に対しリラー号と呼ばれている。

大阪市西区の埋立地に建設された実用自動車株式会社の工場は、ウィリアム・R・ゴーハムが設計し自動車を一貫生産出来るだけの設備を有し、最盛期には従業員数も250名に達している。

後藤 敬義が設計した自動車と工場

しかし、関東大震災後の不況と廉価なアメリカ車の氾濫によりリラー号の販売は落ち込み、経営は一段と厳しくなって行く。
1925年(大正14年)頃からは、自動車の修理や久保田鉄工からの農業機械の部品の下請け、日本ゼネラル・モーターズ株式会社からの部品生産の下請け等を行い、何とか経営を存続している状態であった。

その後、1926年(大正5年)9月2日に東京の合資会社 ダット自動車商会と合併しダット自動車製造を設立している。


実用自動車製造株式会社