第1号ダット自動車製造小型試作車
第一次世界大戦後の経済不況に加えて、関東大震災にも見舞われ、日本経済は危機的状況となっていた。
東京の株式会社 快進社も解散して合資会社 ダット自動車商会になっており、大阪の実用自動車製造株式会社も経営が危機的状態で軍用保護自動車の生産へ転換する事によって企業の存続を図ろうとしていた。
そんな中、当時の自動車行政の責任者である陸軍の能村 磐夫から合資会社 ダット自動車商会と実用自動車製造株式会社の合併の話が持ち上がった。
様々な困難は有ったものの、1926年(大正15年)9月2日にダット自動車製造を設立し、同日 実用自動車製造株式会社を吸収した。ダット自動車製造株式会社の社長には実用自動車製造株式会社の久保田
権四郎、専務に同 久保田 篤次郎が就任している。
同年12月7日に合資会社 ダット自動車商会を吸収し、橋本 増治郎を専務に就任させた。
これで、事実上の合資会社 ダット自動車商会と実用自動車製造株式会社の合併は完了した事となる。
ダット自動車製造株式会社は生産拠点を大阪とし、当面ダット保護自動車の製造に専念する事となる。
従来のダット41型を大幅に改良し、51型、61型へと進化させ1930年(昭和5年)には年間137台の製造実績を作っている。
ダット保護自動車(軍用トラック)で成功した事で、経営基盤がようやく安定したダット自動車製造株式会社ではリラー号に代わるべき近代的な小型乗用車の製造計画が持ち上がった。
後藤 敬義が中心となり1929年(昭和4年)に試作を開始する。水冷4気筒495ccの試作エンジンが完成し、1930年(昭和5年)には試作のシャシーが完成している。同8月にボディーを完成させ第1号ダット自動車製造小型試作車が完成している。
ダット91型
当時の自動車取締規則によると排気量350cc迄の小型車は無試験で登録され車庫も不要という特典が有った。後藤 敬義等は小型車の枠を750ccが適当と考え設計も行っていたが、競合外国メーカーを枠外へ追いやる目的で、小型車の枠を500ccにする様に当局へ働きかけている。
これにより無試験小型車の枠は500ccに拡大され、ボディー寸法は全長2.8m、全幅1.2m、乗員1名という物に変更された。
この規則改正により新しい無試験小型車に合致する自動車の設計を開始し、完成させたのがダット91型である。
この頃のダット自動車製造が製造した自動車はシャシーは大阪工場製、ボディーは大阪工場製、東京芝浦の梁瀬、東京中野の日本自動車株式会社で製造している。
ダット自動車製造株式会社、東京の石川島造船所株式会社自動車部に鋳造製品を納入していた戸畑鋳物株式会社の社長 鮎川 義介は早くから自動車産業に強い関心を抱き、将来性を見据えていた。多種多様な産業を傘下に収めながら自動車工業への進出を目指して着々と準備を進めていた。
1931年(昭和6年)6月29日、鮎川 義介はダット自動車製造株式会社の株式の大半を買占め、戸畑鋳物株式会社の傘下に収めてしまう。
一方国策的に、1931年(昭和6年)に満州事変が勃発、国防的に強力な自動車産業の必要性を痛感した軍部は1932年(昭和7年)にダット自動車製造株式会社、石川島造船所株式会社自動車部、東京瓦斯電気工業の既存トラックメーカー3社を合併させるため強い圧力をかけた。
その後いろいろな問題を乗り越え、この3社の合併は2段階に分けて実現された。
まず大阪のダット自動車製造株式会社と石川島造船所株式会社自動車部が合併し、自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車株式会社)が設立された。この自動車工業株式会社は小型車の製造には一切興味が無く、これに目を付けた戸畑鋳物株式会社の鮎川
義介が1933年(昭和8年)3月、ダット自動車製造株式会社の大阪工場を後藤 敬義等の技術スタッフ及びダットサン小型製造権もろとも買収した。これにより戸畑鋳物株式会社自動車部が設立された。
快進社自働車工場ではダット(DAT)号と呼ばれていたが、ダット自動車製造株式会社に移行された後は次世代のダット号という意味合いで息子という意味のSONを後に付けダットソン(DATSON)と呼ばれた。その後、1932年(昭和7年)3月の株主総会でダットソンのソンは損を連想させるという見解から日が上るという意味合いのSUNに替えてダットサン(DATSUN)に名称を変更されている。