1880年(明治13年)、長州の名門士族の嫡男としてある男が生まれる。
士族とは言っても、大変貧乏な家であった。
しかし母方は、大叔父が明治政府の元勲 井上 馨であった為、大変富貴な家が多く、この男の姉、妹は明治期の大財閥へと嫁いで行った。
この男は1905年(明治38年)から2年間、当時の最先端技術であった鋳物技術を習得する為にアメリカ合衆国へと渡った。
この男が見たアメリカ合衆国は、各家庭にはミシンが有り、電話が引かれており、非常に豊な状態を感じ取った。
この豊かさの根源はアメリカ合衆国の工業の発達であり、この工業の頂点は自動車工業のように思えた。
強い衝撃を受けたが、それ以上に彼の胸の中にはある構想が芽生えたのかも知れない・・・。
帰国したこの男も下へ、1910年(明治43年)6月25日、大叔父の井上 馨の斡旋により、親戚の久原家、貝島家、藤田家、三井家の出資を受け、資本金30万円で戸畑鋳物を設立し専務技師長となる。
明治時代、文明開化の掛け声の下、その象徴である鉄道、船舶を始めとする近代工業には革新的な最先端の技術である鋳物技術を純国産で生産しようとしたのである。
しかし、当時の日本には欧米崇拝の風潮が色濃くあり、なかなか理解し採用してくれる企業は見つからなかった。
この状態のまま暫くは奔走したが、第一次世界大戦の勃発により欧米製品の輸入が停止したのを受け、業績は飛躍的に向上する。
この時期に技術を最優先に考え、欧米の工場にも先駆けて反射炉から電気炉に切り替え、更に電気焼鈍炉を導入し焼鈍時間を従来の10日間から、一気に30時間に短縮、欧米の最先端工場をもしのぐ生産体制を確立した。
1923年(大正12年)には冶金研究所を設立、最先端技術の導入を続け、研究所員を勉学の為に欧米に派遣、鋳物の研究で学士院恩賜賞を受賞、世界的な偉業と迄言われた。
戸畑鋳物が生産する瓢箪印の鉄管継手は、日本の工業製品として初めて米・英の工業先進国へと輸出され、本邦初の快挙として大きく報道をされた。
戸畑鋳物の経営が軌道に乗り、黒字に転換すると空位だった社長に就任し、若手技術員の指導に回った。
渡米し始めて自動車を運転
ここに紹介したある男とは、鮎川 義介 翁の事である。
戸畑鋳物の工場内で、若い技術員に「手を見せい」とよく言っていたそうであるが、鮎川 義介 翁の手は鋼の様な技術者の手であったと言う。
鮎川 義介 翁の戸畑鋳物での成功を受け、親戚の久原家が苦悩しながら経営していた久原鉱業を、1928年(昭和3年)12月29日に改組し持株会社
日本産業株式会社を設立する。資本金は5000万円であった。
当時、持株会社とする事は革新的な事で、鮎川 義介 翁の綿密な計画の上での活躍が見て取る事が出来る瞬間である。
この後も鮎川 義介 翁は多数の企業を設立、また多数の企業を持株会社 日本産業の傘下に収める等、飛躍的に活動し、企業組織を大きく膨らませて行く事になります。
鮎川 義介 翁
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