創業当時の日立鉱山
日本産業は、前身である久原鉱業を改組して誕生した会社である。
1905年(明治38年)、久原 房之助が茨城県の赤沢銅山を買収し日立鉱山として操業を開始する。
1912年(明治45年)には久原鉱業株式会社を大阪市北区中ノ島に設立。資本金は1000万円であった。
その後も1914年(大正3年)、雄物川(秋田県)石油鉱区獲得し、探鉱開始。1916年(大正5年)には、佐賀関製錬所(現在の日鉱金属株式会社佐賀関製錬所(大分県))を開設する等、勢力的に事業を拡大して行く。
産業種別 | 企業名 |
---|---|
鉱業 | 日本鉱業 |
工業 | 日立製作所 |
日立電力 | |
自動車工業 | 日産自動車 |
化学工業 | 日本化学工業 |
日本油脂 | |
水産業 | 日本水産 |
南米水産 | |
日産水産研究所 | |
電波工業 | 日本蓄音機 |
日本ヴィクター | |
栽培業 | 日産護謨 |
その他 | 合同土地 |
樺太汽船 | |
中央土木 | |
帝国木材工業 | |
大同燐寸 | |
日産火災 |
1937年(昭和12年)6月 現在
日本産業株式会社の傘下に入った企業の集団を日産コンツェルン(日産財閥)と言い、三井財閥、三菱財閥、住友財閥等の明治時代以前に存在しておりました財閥を既存財閥と言うのに対し、昭和時代以降に誕生した財閥を新興財閥を呼びます。
1937年(昭12年)鮎川 義介 翁は、当時の満州国(現在の中国東北地方)からの要請を受ける形で満州産業開発5ヵ年計画の遂行のため、日本産業本社を満州に移転し満州重工業開発(満業)と社名変更し、計画実現に向け着手します。
しかしその後、日中戦争の激化による統制経済強化に伴い、開発計画が大きく変化していきます。鮎川 義介 翁は開発を断念して、1942年(昭17年)に満州から撤退することになります。
第二次大戦終結後、連合国の財閥解体指令により満州重工業開発は解散させられる事となります。
日産コンツェルン各社は、それぞれ自社の経営再建に専念せざるを得ない状況になり、財閥としての日本産業(日産コンツェルン)は事実上消えてしまう事になります。
晩年の久原 房之介 氏(左)と 鮎川 義介 翁(右)
日産コンツェルン各社の経営が安定するにつれ、
徐々に連携の機運が再び盛り上り、各地方でも旧
日本産業グループ各社の支店営業所、関連会社
が主体となり、地域懇話会がスタートしました。
1962年(昭和37年)に旧日産コンツェルン企業主要
会社13社が終結し春光会が発足。
沿革時期を挟んで1971年(昭和46年)に日産懇話
会と名称を変更、2002年(平成14年)1月には春光
懇話会へと名称を変更、現在に至っています。
これからも春光懇話会各社は独自で発展を続け、
また協力し合って拡大して行く事でしょう。