1933年型フェートン
製造銘板
戸畑鋳物株式会社
自動車部 大阪工場
1910年(明治43年)6月25日、戸畑鋳物株式会社を設立した鮎川 義介 翁は、最先端の技術を導入する等で大成功を収めた。
調度その頃、日本経済は危機的な状態となっており、鮎川 義介 翁とは親戚関係にあった久原 房之助 氏が経営する久原鉱業株式会社も経営の危機にあり、1928年(昭和3年)12月29日鮎川
義介 翁に経営権を譲り、社名も日本産業株式会社とした。
鮎川 義介 翁は、自らが築いた戸畑鋳物株式会社も日本産業株式会社の傘下に収め、日産コンチェルンの総帥となる。
早くから自動車産業に強い関心を抱き、将来性を見据えていた鮎川 義介 翁は、多種多様な産業を傘下に収めながら自動車産業への進出を目指して着々と準備を進めていた。
1931年(昭和6年)6月29日、鮎川 義介 翁はダット自動車製造株式会社の株式の大半を買占め、戸畑鋳物株式会社の傘下に収めてしまう。
国策的に軍部が、1932年(昭和7年)にダット自動車製造株式会社、石川島造船所株式会社自動車部、東京瓦斯電気工業の既存トラックメーカー3社を合併させるため強い圧力をかけた。
まず大阪のダット自動車製造株式会社と石川島造船所株式会社自動車部が合併し、自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車株式会社)が設立された。この自動車工業株式会社は小型車の製造には一切興味が無く、これに目を付けた戸畑鋳物株式会社の鮎川
義介 翁が1933年(昭和8年)3月、ダット自動車製造株式会社の大阪工場を後藤 敬義等の技術スタッフ及びダットサン小型製造権もろとも買収した。これにより戸畑鋳物株式会社自動車部が設立された。
1933年(昭和8年)10月31日には戸畑鋳物株式会社が、横浜市から横浜市新子安海岸埋立地2万余坪を買収し、新たな新天地とする事を決定し、同年12月には、この土地で地鎮祭を行い、ウィリアム・ゴーハム指揮の元、横浜工場の建設に取り掛かる。
1933年(昭和8)年12月26日、日本産業株式会社と戸畑鋳物株式会社の2社から資本金1000万円の出資を受け、戸畑鋳物株式会社自動車部を戸畑鋳物株式会社から切り離し、自動車製造株式会社を横浜市に設立、鮎川
義介 翁は社長に就任する。
1933年(昭和8年)12月26日 自動車製造株式会社 創立の時(日本側役員、アメリカ人技師と夫人)
翌1934年(昭和9年)5月30日に行われた第1回定期株主総会で提案し、6月1日に社名を日産自動車株式会社へ変更する事となる。
日産自動車株式会社の創立日は、自動車製造株式会社の創立日とし、1933年(昭和8年)12月26日としている。
日産自動車株式会社(自動車製造株式会社)の工場として稼動した1番目の工場はダット自動車製造の大阪工場で、横浜工場は2番目の工場である。なお、大阪工場は1956年(昭和31年)11月21日に廃止されている。