プリンス自動車工業株式会社は、創立当初は自動車メーカーではなく、飛行機メーカーとして発足している。

1924年(大正13年)11月、石川島造船所が中心となり東京市京橋区月島に石川島飛行機製作所を設立し、初等練習機 赤とんぼ等の生産を行う。

数年後には陸軍航空本部指定工場となり、1930年(昭和5年)には東京府北多摩郡立川町へ工場を移転、1936年(昭和11年)7月 陸軍の意向により立川飛行機株式会社に社名を変更している。


1941年(昭和16年)に、中島飛行機で開発された大日本帝国陸軍 一式戦闘機(通称 隼)を製造開始。

この一式戦闘機は総生産量が5700機以上で、大日本帝国の戦闘機としては海軍零式艦上戦闘機に次ぐ2番目の多さとなった。

また同年に中島飛行機に開発命令が下され、1944年(昭和19年)に制式採用となった四式戦闘機(通称 疾風)が、4月より立川飛行機株式会社でも製造される様になった。

この様に第二次世界大戦中には、大日本帝国の軍部の命令により多くの戦闘機の製造を行う事となる。

石川島飛行機製作所

大日本帝国陸軍 一式戦闘機 隼

石川島飛行機製作所(立川飛行機株式会社)

1945年(昭和20年)8月15日に大日本帝国敗戦。連合国軍総司令本部(G.H.Q.)が日本国内に進駐し、立川飛行機株式会社の工場設備が接収され戦闘機の製造から撤退する事となる。

こんな中、立川飛行機株式会社は連合国軍総司令本部からの依頼を受け自動車の整備を行う事となります。また、日本国内はガソリン流通が統制され入手が困難となり、これに目を付けた立川飛行機株式会社が電池(バッテリー)を利用した電気自動車の開発を始める事になりました。

この時に技術協力したメーカーは、第二次世界大戦以前からの有名小型車メーカーであった高速機関工業株式会社(通称ブランド オオタ)がシャシの技術を、バッテリーは湯浅電池株式会社が行っている。


立川飛行機自動車株式会社

1946年(昭和21年)11月に、社名を立川飛行機自動車株式会社に変更し、本格的に平和産業への転身を図る事になります。


東京電気自動車株式会社

連合国軍総司令本部の指令を受け、立川飛行機自動車株式会社が企業解散させられる。この時に、立川飛行機自動車株式会社の元従業員有志の出資により、1947年(昭和22年)6月に東京電気自動車株式会社を設立。

電気自動車たま号

同年、電気自動車たま号を発売。

日本国内はガソリン流通が統制を受けていた為、電気自動車は非常に好評であった。

1948年(昭和23年)3月には電気自動車たまジュニアと たまセニアを発売。

直後に行われた通商産業省が主催した電気自動車の性能テストにおいて、電気自動車たま号が最も優秀な電気自動車とされた。

ただ、大量に生産、販売を行いたい東京電気自動車株式会社ではあったが、自動車に使用する材料を調達する為の資金にも翻弄していた。

たま電気自動車株式会社

資金難の中、1949年(昭和24年)11月、日本足袋(現在のブリヂストン株式会社)の創業者 石橋 正二郎の系列傘下に入り、社名も たま電気自動車株式会社に変更する事となる。

1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争により、アメリカ合衆国軍の軍需資材調達の為の買い占めによりバッテリー用鉛の価格が8〜10倍に一気に急騰。

同時に、当時ガソリン流通に掛けられていた統制が解かれ、ガソリンが一般的に流通する事となり電気自動車は終焉を迎える事となってしまう。

この頃の たま電気自動車株式会社は朝鮮戦争特需によるアメリカ合衆国軍等からのミサイル等の製造依頼で生計を立てる事になってしまう。

1950年(昭和25年)11月、立川飛行機株式会社と同じく第二次世界大戦中の大日本帝国の軍部の命令により多くの戦闘機を開発、製造していました中島飛行機株式会社の企業解体後の一社である富士精密工業株式会社と技術提携を行い、ガソリンエンジンの供給を受けガソリン自動車の製造へと転換を図る事となります。

在庫の たまジュニア、たまセニアにガソリンエンジンを搭載し、オオタブランドで発売している。


たま自動車株式会社

電気自動車の製造からガソリン自動車の製造へと転換する中、1951年(昭和26年)11月 社名を たま自動車株式会社に変更。
 
当初からガソリン自動車として設計された AISH型乗用車、AFTF型トラックの開発に取り掛かる。

新開発のFG4Aエンジンは、当時日本の小型乗用車用ガソリンエンジンの中で最大の1500cc 45PSで、富士精密工業株式会社から供給を受けた。

このエンジンは、石橋正二郎の自家用車であったPEUGEOT 202の1200ccエンジンをベースに拡大設計したものであるが、以後10年以上に渡り改良を受けつつ、プリンス自動車工業株式会社の主力エンジンとなります。
AISH乗用車(プリンス・セダン)は4速シンクロメッシュ・ギアボックスやコラムシフト、油圧ブレーキや低床シャーシを備え、当時もっとも進歩的な日本車の一つであった。もっとも前輪は固定軸であり、再び独立式となるのは1956年(昭和31年)の事である。

1952年(昭和27年)には開発中であった AISH型乗用車、AFTF型トラックを発売開始。

同年、後の平成天皇となる明仁皇太子が立太子礼を行ったことから、これらの自動車の通称名をプリンスとした。

プリンスセダン AISH-2型

プリンス自動車工業株式会社

1952年(昭和27年)11月、先に発売したガソリン車の通称名に合わせて、社名を プリンス自動車工業に変更。

また1954年(昭和29年)2月には、販売力強化の為に予めプリンス自動車販売株式会社が設立されている。

1954年(昭和29年)4月にガソリンエンジンを供給していました富士精密工業株式会社と合併し、存続社名を富士精密工業株式会社としている。






中島飛行機製作所(中島飛行機株式会社)

1917年(大正6年)12月、中島 知久平中心に7名の少人数から中島飛行機製作所の歴史は始まる事となる。

中島飛行機製作所(飛行機研究所)

中島式一型飛行機

1917年(大正6年)12月、民営航空機工業の確立を志して海軍機関大尉を退役した中島知久平(当時33歳)は群馬県太田町に近い利根川沿いに養蚕小屋を改造した粗末な建物の「飛行機研究所」を開設した。設立当初はたったの7名。そして、もうその翌年にはアメリカ製エンジンを搭載した中島式一型1号機を完成させた。しかし初飛行にて離陸直後に敢えなく大破、2号機も続けて失敗。3号機でやっと17分の飛行に成功したものの着陸時に溝に落ちて大破といった惨憺たるものであった。

そして苦難の創生期の中で中島式四型6号機が完成し、ようやくにして尾島町の空を見事に飛んだのである。

1919年(大正8年)、第一回懸賞郵便飛行競技が東京〜大阪間で行われ、輸入機に対抗して、中島式四型機が3時間18分で飛び、賞金9,500円を獲得すると同時に、その優秀性を世に知らしめる契機となった。

1920年(大正9年)、大日本帝国の軍部は第一次大戦での欧米の航空機技術の飛躍的進歩に注目し、フランスから航空教育団を招聘し、また機体および発動機のライセンス生産を本格的に当たり始めた。

中島飛行機製作所は中島乙未平をフランスに長期出張させ、航空関係の情報、技術収集に当たらせた。

これが契機となり、軍部からの大量発注を受け、その後に中島飛行機が大発展する契機となった。

1922年(大正11年)にはブレゲー14型をモデルにした、我が国初の準金属製・中島式B-6型機を完成した。

当時画期的な軽金属ジュラルミンを使ったことから「軽銀号」と名付けられ、上野で開かれた平和記念東京博覧会に出品し人気を博した。

中島式B-6型飛行機

1931年(昭和6年)12月、組織を株式会社化する事に決定し、中島飛行機株式会社と社名を変更する。

資本金は600万円であった。

1935年(昭和10年)の陸海軍の競作に対し、中島戦闘機史の頂点に立つとも言える九七式戦闘機が採用された。

当時、中島の中でも単葉にするか、複葉にするか会社を二分する論争が巻き起こっていた。

海外でも同様であり、格闘性を重んじると必然的に複葉が常識であった。

その中で主務者である小山悌技師は太田稔技師、糸川英夫技師らの若い新進技術者の協力により、初の全金属製片持式低翼単葉の軽戦闘機で革新的な機体構造や新しい翼理論による断面形状、前縁を直線としたユニークな桁構造を採用してキ-27を完成させた。

そして三菱重工業株式会社、川崎重工業株式会社の機体に競り勝ち97戦として中島飛行機株式会社(中島飛行機製作所)3番目の本格的制式機となったのである。

九七式戦闘機

この97戦に採用された独特の翼理論は後の中島戦闘機の全てに引き継がれていった。

その後も第二次世界大戦で活躍する事となる戦闘機を多く開発、製造を行っている。

量産中の隼(太田工場)

陸軍一式戦闘機(通称 隼)、陸軍二式戦闘機(通称 鍾馗)、陸軍四式戦闘機(通称 疾風)等を始め優秀な戦闘機を生み出し、また三菱重工業株式会社が開発を行った海軍零式艦上戦闘機(通称 ゼロ戦)の発動機 栄の製造も行っている。

第二次世界大戦終盤の1945年(昭和20年)には各工場は徹底的なB-29による爆撃にさらされ生産能力は壊滅していった。

同年8月、終戦と共に飛行機の生産の禁止、そのほとんどが軍需生産であった中島飛行機株式会社には1950年(昭和25年)7月に連合国軍総司令本部から企業解体命令が発せられた。

創業以来の生産実績は、機体25,935機、発動機46,726基に達した。


富士産業株式会社

中島飛行機株式会社は、1945年(昭和20年)8月に平和産業への転換を図り、社名も 富士産業株式会社に変更している。

しかし、行っていたほとんど全てが軍需生産であった為、1950年(昭和25年)7月に連合国軍総司令本部の命令により企業解体させられてしまう。

富士重工業株式会社、富士工業株式会社、富士自動車工業株式会社、大宮富士工業株式会社、宇都宮車両株式会社、東京富士産業株式会社(以上の6社が後に再結集して富士重工業株式会社を設立している)、富士精密工業株式会社、富士機器株式会社、愛知富士産業株式会社、富士機械工業株式会社、栃木富士産業株式会社、岩手富士産業株式会社の12社に解体させられている。


富士精密工業株式会社

1950年(昭和25年)7月に連合国軍総司令本部の命令により企業解体させられた中島飛行機株式会社の、解体後の1社である。

富士精密工業株式会社は新たな平和産業への進出先として、自動車産業界を選択する。


富士精密工業株式会社の株主である興業銀行は、当時の国内自動車メーカーの経営状況から自動車に手を出す事に反対していた。

そこで日本足袋(現在のブリヂストン株式会社)の創業者 石橋正二郎は興業銀行から富士精密工業株式会社の株式を買い取り、自らが会長に収まり富士精密工業株式会社を自動車産業界へと導く事となります。


そして開発されたガソリンエンジンがFG4Aエンジンで、当時日本の小型乗用車用ガソリンエンジンの中で最大の1500cc 45PSを発揮していました。

このエンジンは、石橋正二郎の自家用車であったPEUGEOT 202の1200ccエンジンをベースに拡大設計したものであるが、以後10年以上に渡り改良を受けつつ、プリンス自動車工業株式会社の主力エンジンとなります。

プリンス自動車工業株式会社、富士精密工業株式会社 両社とも同じ石橋 正二郎(日本足袋、ブリヂストン株式会社)系傘下企業でありながら車体とエンジンを別々に作り続けるのも不自然な上に非効率である為、資本金の大きい富士精密工業株式会社に吸収される形で、新しい富士精密工業株式会社が1954年(昭和29年)4月に誕生する事となる。

また1954年(昭和29年)2月には、販売力強化の為に予めプリンス自動車販売株式会社が設立されている。






プリンス自動車工業株式会社

1954年(昭和29年)4月に石橋 正二郎(日本足袋、ブリヂストン株式会社)系傘下の企業であったプリンス自動車工業株式会社と富士精密工業株式会社が合併し、社名も富士精密工業株式会社となり新たな自動車の開発にも取り掛かる事となる。

初代 プリンス スカイライン SLSH-1型

初代 プリンス グロリア BLSIP-1型

1957年(昭和32年)4月、初代 プリンス スカイラインを発売。

1959年(昭和34年)1月、初代 プリンス グロリアを発売。

1961年2月、プリンス スカイラインとプリンス グロリアのイメージの定着が世間に浸透したのに合わせ、富士精密工業株式会社からプリンス自動車工業へと社名を変更している。

プリンス スカイラインスポーツ BLRL-3型

1962年(昭和37年)、イタリア人デザイナーのミケロッティのデザインによるプリンス スカイラインスポーツを発売。

同じく1962年(昭和37年)、東京都武蔵村山市にプリンス自動車工業株式会社村山工場を建設。テストコースをも備えた大規模な工場で、以後 プリンス自動車工業株式会社の主力工場となる。

また、この年には2代目 プリンス グロリアを発売。

翌1963年(昭和38年)には、2代目 プリンスグロリアに直列6気筒S.O.H.C.エンジン「G7型」(2000cc、105PS)を搭載した「グロリア・スーパー6」を追加している。

日本製量産乗用車として初のSOHCエンジン搭載車となる。

以後、競合する他社も追随し、日本車においてS.O.H.C.エンジンが普及するきっかけとなる。

1963年(昭和38年)5月、鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが行われる。

自動車工業会の「車体を改造しない」という申し合わせにより、プリンスは無改造のスカイライン スーパーにて参戦した。

しかし、他社はエンジンやサスペンションを改造しており、プリンスは8位と惨敗に終わる。

これに屈辱を覚え、翌年に向けて全社規模に及ぶプロジェクトを立ち上げることになる。

中川 良一常務取締役を最高責任者として、エンジン実験課の青地康雄をワークスチーム監督、設計課の櫻井 真一郎(スカイラインの生みの親)をレース車開発チーフに据え、ほとんどのスタッフが市販車の開発と同時進行で取り組むことになった。

1964年(昭和39年)、5月3日の第2回日本グランプリ(GT-2クラス)向けに、スカイラインを車体延長して3連キャブ150馬力のG7型エンジンを搭載した「スカイラインGT」を開発。

鈴鹿での事前テストで、当時の国産車では最高となる3分を切るタイムを記録。

本戦ではポルシェ904と激しいバトルを展開し、生沢 徹が乗る41号車スカイラインが一時はトップに立つ。

しかし僅か1周で抜き返され、敗れ去った。

しかし砂子 義一が2位、生沢 徹が3位に入り、社員ドライバーも古平が4位、殿井が5位、須田が6位と完走11車(30車出場)の上位を独占した。

1965年(昭和40年)5月、当時の通商産業省の自動車業界再編計画と、プリンス自動車工業株式会社自身の経営不振が背景にあり、日産自動車株式会社との合併計画を発表。

また、会長の石橋 正二郎がタイヤメーカー ブリヂストン株式会社の経営者でもあったため、他の自動車メーカーへのタイヤ納入で苦慮していたらしく、タイヤをとるか自動車をとるかの苦渋の選択があったとも言われている。

1966年(昭和41年)、4バルブ225馬力のGR8エンジン、アルミボディのR380を作成し5月の第3回日本グランプリに4台が参戦する。

強敵ポルシェ906に先行されるが、給油装置を高い位置に設置することにより、ポルシェよりも30秒も速く給油を済ませ逆転する。

ポルシェはこの後クラッシュしてリタイア、その他の車を3周遅れにし砂子義一が優勝。

2位と4位も獲得する。

1966年(昭和41年)8月、プリンス自動車工業株式会社は日産自動車株式会社に吸収される形で合併し、プリンス自動車工業株式会社としての歴史に幕を下ろす事となります。

この後も、プリンス自動車工業株式会社の高い技術力は日産自動車株式会社の中に溶け込み、新たな技術開発へと繋がって行く事となります。


プリンス自動車工業株式会社