1880年(明治13年)11月6日。
旧長州藩士10代目 鮎川弥八を父とし、大日本帝国 初代内閣
(第一次 伊藤博文内閣)の外務大臣 井上馨の実姉の長女を母
として、山口県氷川郡大内村(現在の山口市大内地区)に生を
受ける。
井上馨の元で、書生生活を過ごしながら国立 東京帝国大学工
科大学機械科(現在の東京大学機械科)へと進む。
1903年(明治46年)、東京帝国大学工科大学機械科を卒業し、
芝浦製作所に入社する。
身分を明かさない条件で入社し、日給48銭の職工となり勤務す
る事となった。
その後、当時の日本国内の工業技術は全て西洋の模倣であった為、西洋の状況を体験すべくアメリカ合衆国へと渡る。
約1年と少しの期間、可鍛鋳鉄工場で労務者として働く。
鮎川義介 翁
鮎川 義介(あいかわ よしすけ)
1880年(明治13年)11月6日〜1967年(昭和42年)2月13日
”DATSUN”育ての親
”日産コンツェルン”総帥
元勲 井上馨
忽ちのうちに三井財閥、三菱財閥、住友財閥に次
ぐ大財閥組織 日産財閥(日産コンツェルン)を作り
上げた鮎川義介 翁の才覚は、当時 満州国を牛
耳っていた大日本帝国 陸軍(関東軍)の目にも止
まり、戦時経済によって成績が頭打ちになってい
た鮎川義介 翁側との利害が一致する形で、1937
年(昭和12年)に日本産業を満州国の新京(現在の
長春)に移転し、満州国籍の満州重工業開発に改
組した。
鮎川義介 翁は、満州重工業開発初代総裁、相談
役、そして同時に、満州国顧問、貴族院勅撰議員、
内閣顧問を兼務する事となる。
しかし、鮎川義介 翁が目論んでいた外資導入は不調に終わり、且つ大日本帝国 陸軍が喧伝した程の地下資源も豊富でなかった。
1939年(昭和14年)頃から、満州国の重鎮と世界情勢を語り合い、ドイツとイギリス・フランスとの戦争ではイギリス・フランスが勝つとの結論を得る。
大日本帝国 陸軍との関係悪化から、日産財閥の満州国からの撤退を検討し始め、1942年(昭和17年)頃に満州重工業開発の総裁を辞任し、帰国している。
第二次世界大戦敗後、連合国軍が行った東京裁判により戦犯容疑を受け、東京都の巣鴨拘置所に20ケ月拘置された。
鮎川義介 翁は、この獄中にて日本国の復興策を練った。
一時は戦犯指定、公職追放されたが、戦犯容疑が晴れ、公職追放解除後には、一転して中小企業の投資育成に傾注する様になる。
1952年(昭和27年)、鮎川義介 翁 72歳の時、日産財閥各社の出資を得て中小企業助成会(現在のテクノベンチャー)を設立。
ベンチャーキャピタルの先駆けとなる。
会長に就任している。
以後、中小企業の振興に力を入れ、翌年の1953年(昭和28年)には帝国石油社長、石油資源開発社長。
参議院議員に立候補し、当選を果たしている。
1956年(昭和31年)、日本中小企業政事連盟(中政連)を創立し、総裁に就任。
その後、主として政治家としての晩年を送る。
また同年設立された全国中小企業団体中央会の会長にも就く。
この間、岸内閣経済最高顧問、東洋大学名誉総長も務めている。
3年後の1959年(昭和34年)には、全国区より参議院に再度当選したが、同時に当選した鮎川義介 翁の次男 鮎川金次郎派運動員の選挙違反容疑が高まり、同年12月、道義上の責任を取り、参議院議員を辞職した。
1967年(昭和42年)2月13日、持病の胆嚢炎手術の後、急性肺炎により東京都 駿河台杏雲堂病院で死去。
87歳であった。
墓所は東京都 多磨霊園に置かれている。
満州国の重鎮(右端丸中が鮎川義介 翁)
鮎川義介 翁の墓所(多磨霊園)
鮎川義介 翁が生前に残した名言
「古来事業をなすには、天の時、人の和と言い伝えられているが、これを貫くに"至誠"をもってしなくては、事業の成功を期すことはできない。」