鮎川 義介

1880年(明治13年)11月6日。

旧長州藩士10代目 鮎川弥八を父とし、大日本帝国 初代内閣
(第一次 伊藤博文内閣)の外務大臣 井上馨の実姉の長女を母
として、山口県氷川郡大内村(現在の山口市大内地区)に生を
受ける。

井上馨の元で、書生生活を過ごしながら国立 東京帝国大学工
科大学機械科(現在の東京大学機械科)へと進む。

1903年(明治46年)、東京帝国大学工科大学機械科を卒業し、
芝浦製作所に入社する。

身分を明かさない条件で入社し、日給48銭の職工となり勤務す
る事となった。

その後、当時の日本国内の工業技術は全て西洋の模倣であった為、西洋の状況を体験すべくアメリカ合衆国へと渡る。

約1年と少しの期間、可鍛鋳鉄工場で労務者として働く。

野村證券の祖、野村徳七がアメリカ合衆国を視察の為に渡米した時、アメリカ合衆国の小さな工場で油まみれになって働く日本人の青年を見つけた。

よく働く青年だなぁと思って声を掛けたところ、なんと東京帝国大学を卒業したと聞き、更にびっくりしたそうだ。

東京帝国大学を卒業したと言うのに、こんな工場で一から技術を学ぶとは・・・。

大日本帝国の将来は明るいと感じたそうです。

この時に野村徳七に声を掛けられた青年こそ、鮎川義介翁だった。

アメリカ合衆国で鍛造技術を習得した後に帰国。

1909年(明治42年)、29歳の時に井上馨の支援と、貝島太助・藤田小太郎等の出資により戸畑鋳物(現在の日立金属)を設立。

戸畑鋳物経営の際に共立企業と言う小規模の持株会社を設立・経営した事と、同様の方法で貝島家の事業を立て直した事が、後々日産コンチェルンを経営する上で役立つ事になる。

1928年(昭和3年)、義弟の久原房之助率いる久原財閥が、第一次世界大戦後の恐慌と久原房之助の政界入り等による商事部門の経営破綻で不振に陥ると、政友会の田中義一(陸軍大将)等は鮎川義介 翁に再建を懇請し、この懇願に対し鮎川義介 翁が応じた。

久原財閥の中核だった久原鉱業を日本産業に改組し、事業は新設の日本鉱業に引き継がせ、日本産業は株式市場から広く資金を仰ぎながら傘下企業の日本鉱業・日立製作所・日立電力等の管理や新事業の開拓に専念する持株会社とした。

更に戸畑鋳物を日本産業の傘下に置くと共に共同漁業(日本水産)・大阪鉄工所(日立造船)・中央火災海上(日産火災海上)・日本蓄音器商会(日本コロンビア)などを買収・設立した。

鮎川義介 翁

鮎川 義介(あいかわ よしすけ)

1880年(明治13年)11月6日〜1967年(昭和42年)2月13日



”DATSUN”育ての親

”日産コンツェルン”総帥

元勲 井上馨

忽ちのうちに三井財閥、三菱財閥、住友財閥に次
ぐ大財閥組織 日産財閥(日産コンツェルン)を作り
上げた鮎川義介 翁の才覚は、当時 満州国を牛
耳っていた大日本帝国 陸軍(関東軍)の目にも止
まり、戦時経済によって成績が頭打ちになってい
た鮎川義介 翁側との利害が一致する形で、1937
年(昭和12年)に日本産業を満州国の新京(現在の
長春)に移転し、満州国籍の満州重工業開発に改
組した。

鮎川義介 翁は、満州重工業開発初代総裁、相談
役、そして同時に、満州国顧問、貴族院勅撰議員、
内閣顧問を兼務する事となる。

しかし、鮎川義介 翁が目論んでいた外資導入は不調に終わり、且つ大日本帝国 陸軍が喧伝した程の地下資源も豊富でなかった。

1939年(昭和14年)頃から、満州国の重鎮と世界情勢を語り合い、ドイツとイギリス・フランスとの戦争ではイギリス・フランスが勝つとの結論を得る。

大日本帝国 陸軍との関係悪化から、日産財閥の満州国からの撤退を検討し始め、1942年(昭和17年)頃に満州重工業開発の総裁を辞任し、帰国している。

第二次世界大戦敗後、連合国軍が行った東京裁判により戦犯容疑を受け、東京都の巣鴨拘置所に20ケ月拘置された。

鮎川義介 翁は、この獄中にて日本国の復興策を練った。

一時は戦犯指定、公職追放されたが、戦犯容疑が晴れ、公職追放解除後には、一転して中小企業の投資育成に傾注する様になる。

1952年(昭和27年)、鮎川義介 翁 72歳の時、日産財閥各社の出資を得て中小企業助成会(現在のテクノベンチャー)を設立。

ベンチャーキャピタルの先駆けとなる。

会長に就任している。

以後、中小企業の振興に力を入れ、翌年の1953年(昭和28年)には帝国石油社長、石油資源開発社長。

参議院議員に立候補し、当選を果たしている。

1956年(昭和31年)、日本中小企業政事連盟(中政連)を創立し、総裁に就任。

その後、主として政治家としての晩年を送る。

また同年設立された全国中小企業団体中央会の会長にも就く。

この間、岸内閣経済最高顧問、東洋大学名誉総長も務めている。

3年後の1959年(昭和34年)には、全国区より参議院に再度当選したが、同時に当選した鮎川義介 翁の次男 鮎川金次郎派運動員の選挙違反容疑が高まり、同年12月、道義上の責任を取り、参議院議員を辞職した。

1967年(昭和42年)2月13日、持病の胆嚢炎手術の後、急性肺炎により東京都 駿河台杏雲堂病院で死去。

87歳であった。

墓所は東京都 多磨霊園に置かれている。

満州国の重鎮(右端丸中が鮎川義介 翁)

鮎川義介 翁の墓所(多磨霊園)

鮎川義介 翁が生前に残した名言

「古来事業をなすには、天の時、人の和と言い伝えられているが、これを貫くに"至誠"をもってしなくては、事業の成功を期すことはできない。」