橋本 増治郎

橋本増治郎 翁

橋本増治郎(はしもと ますじろう)

1875年(明治8年)4月28日〜1944年(昭和19年)1月18日



”DATSUN”生みの親

1875年(明治8年)4月28日、愛知県柱村十九番戸(現在の愛知県岡崎市)に生を受ける。

1895年(明治28年)7月、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)機械科を卒業する。

卒業後、社会経験を積み、1896年(明治29年)1月21日、1899年(明治32年)11月の満期除隊まで名古屋第三師団工兵第三大隊へ入隊。

除隊後、再び社会経験を積む為に1900年(明治33年)3月、住友工業に入社。

新居浜住友工業所機械課勤務となる。

橋本増治郎 翁は、かねてより念願だった渡米を恩師 手島精一に相
談。

この手島精市の推薦を受け、1902年(明治35年)2月17日に大日本帝
国 農商務省海外実業練習生となる。

1902年(明治35年)4月に渡米し、ニューヨーク州オーバーン市にある
マッキントッシュ社の蒸気機関製造工場で働く。

1905年(明治38年)6月、日露戦争が勃発。

橋本増治郎 翁は帰国を余儀なくされるが、帰国直前にキャデラックや
リンカーンの生みの親で、自動車技術の大家であったヘンリー・リーラ
ンドに面会する機会があったと言う。

当時のアメリカ合州国の自動車産業では高い製造技術をベースに、
互換部品や流れ作業による大量生産システムを誕生させつつあった。

ヘンリー・リ−ランドとの出会いと、近代自動車工業の光景が、橋本増治郎 翁の生涯を決定づけたのであろう。

1903年(明治36年)頃 撮影

帰国後、東京砲兵工廠で留守第三師団附任官の兵役を受け経て、同年9月に召集を解除される。

1905年(明治38年)11月、合資会社越中島鉄工所 工場技師長となる。

1907年(明治40年)12月、勤務していた合資会社越中中島鉄工所が経営不振となり九州炭鉱汽船に買収される。

この九州炭鉱汽船の社長 田健治郎と、役員の竹内明太郎との出会いが、橋本増治郎 翁の自動車進出の転機となる。

橋本増治郎 翁の実力を認めた田健治郎、竹内明太郎の2人が、橋本増治郎 翁の自動車への夢の後ろ盾となってくれたからである。

また、同郷、同級の友人で逓信省技師となっていた青山禄郎も支援者に加わり、1911年(明治44年)、国産自動車製造メーカー”快進社自働車工場”が誕生した。

快進社自働車工場と工場員

工場建坪37坪、工員6名、工作機械5台、工場動力4馬力のささやかな町工場ではあったが、最新の官営工場でも滅多にお目にかかれない米国ブラウン&シャープ社製の最高級工作機械や、母校で研究試作された最先端の旋盤等を備えていた。

またアメリカ合衆国で実業を学んだ橋本増治郎 翁は、労働者の社会的地位の向上を切な願いとし、当時の日本社会での呼び名である職工、小僧を改め工場員と呼んだ。

そして当時の作業服だった草履、和服に替えて作業上の安全を考慮し革靴を支給し、誇りと自覚を就業服に託し支給している。

橋本とゑ 夫人

この就業服は、橋本増治郎 翁の夫人、橋本とゑ 夫人が工場員一人一人の背丈に合わせ、手動・卓上式シンガーミシンで縫製した物である。

なお、この橋本とゑ夫人が愛用した手動・卓上式シンガーミシンは、今でも橋本家に大切に保管されている。

当初は、自動車修理と輸入車の組立・販売等を行っていた。

同時に、国産自動車の研究試作を続け、1913年(大正2年)10月、水冷V型2気筒 15馬力のガソリンエンジンを搭載した乗用車を完成させている。

この乗用車は、1914年(大正3年)に東京都上野で開催された大正博覧会に”ダット(DAT)号=脱兎”と命名し出品した。

この時に、銅牌を受賞している。

1916年(大正5年)4月、アメリカ合衆国の工業事情を視察する為に、再び渡米する。

1918年(大正7年)、株式会社快進社に改め取締役社長となる。

1922年(大正11年)、平和博覧会に”ダット41型”水冷直列4気筒 15.8馬力の乗用車及び改造自動貨車を出品し金牌を獲得している。

自動貨車は、1918年(大正7年)に制定された軍用保護自動補助法に合わせたものである。

橋本とゑ 夫人 愛用のシンガーミシン

敷地6000坪の工場を建設

自らの技術力に自信を得た橋本増治郎 翁は、東京都長崎
村(現在の東京都豊島区池袋)に敷地6000坪の大工場を建
設し、本格的な国産自動車製造を開始した。

しかし、快進社が米式のインチで製造を行っていた為、大日
本帝国陸軍規格のメートル仕様に合わない等、軍用保護自
動車採用は1924年(大正13年)まで延びる事となった。

その間の第一次世界大戦後の不況、関東大震災、そしてフ
ォード社が日本進出を決める等、快進社にとって状況は厳し
いものだった。

1923年(大正12年)、東京都 豊島〜目白に乗合自動車の営業始める。

この乗合自動車の営業は、1926年(大正15年)に東京都営に吸収されている。

1925年(大正14年)、橋本増治郎 翁は快進社を解散し、ダット自動車商会に組織を縮小する。

翌年の1926年(大正15年)、大阪の実用自動車製造株式会社と合併した。

1930年(昭和5年)3月、東京都小石川区白山下に営業所を設け、団体タクシーの営業をを開始する。

大阪に中心が移ったダット自動車製造で、橋本増治郎 翁はダット51型、61型、71型軍用トラックの開発製造に関わるが、1931年(昭和6年)に辞職し東京に戻った。

1933年(昭和8年)5月、東京都目白に武蔵野モーター研究所を開設し、自動車や発動機などの研究を続けていた。

1944年(昭和19年)1月18日、享年70歳で没された。