NISSAN FAIRLADY Zは、1969年(昭和44年)に登場し、初代 S30型、2代目 S130型、3代目 Z31型、4代目 Z32型、そして今回登場するZ33型は5代目となる。
初代 S30型から4代目 Z32型までを合わせると、約1,500,000台を販売しており、スポーツカーとしては異例とも言える程の販売台数を誇り、これをもってしてもNISSAN FAIRLADY
Zが日本国を代表するスポーツカーであることは誰もが認める所となっている。
NISSAN FAIRLADY Z 最大の市場はアメリカ合衆国で、初代 S30型に始まり、2代目 S130型、3代目 Z31型、4代目 Z32型と、NISSAN FAIRLADY Zの人気が衰えることはなかった。
しかし、1985年(昭和60年)に始まる、2年間で日本円と米ドルの為替レートが2倍になるという猛烈な円高は、NISSAN FAIRLADY Z("Z
car")の販売に多大な影響をもたらした。
NISSAN FAIRLADY Zの販売価格が上がってしまった1987年(昭和62年)以降、アメリカ合衆国でのNISSAN FAIRLADY
Zの販売は大きく落ち込んでしまったのである。
この様な事態に対抗する為、日産自動車は4代目 Z32型へモデルチェンジを行い、NISSAN FAIRLADY Zを販売価格にふさわしい高級スーパースポーツにしようとした。
完成した4代目 Z32型の評判は高く、全米のディーラーを集めた試乗会でも絶賛された。
ところが、思わぬ落とし穴があった。
この頃、アメリカ合衆国において、スポーツカーの盗難があまりにも多発し、スポーツカーの保険料が高騰する事となった。
その保険料の金額は、1年間で1,000,000円近くに昇った。
その結果、NISSAN FAIRLADY Zの販売は大きな打撃を被むる事となった。
1996年(平成8年)アメリカ合衆国に輸出されたNISSAN FAIRLADY Zは、わずかに1351台・・・。
日産自動車は、この1996年(平成8年)限りでNISSAN FAIRLADY Zの対米輸出を中止した。
また、2000年(平成12年)にはNISSAN FAIRLADY Z Z32型の生産を全て打ち切る事となってしまう。
しかし、知る人は少ないものの、NISSAN FAIRLADY Z復活の動きは1995年(平成7年)から始まっている。
この1995年(平成7年)、アメリカ合衆国では、NISSAN FAIRLADY Z誕生25周年を記念する式典が開催されている。
この式典には、NISSAN FAIRLADY Z 初代 S30型の開発に大きな影響を与えた当時のアメリカ日産の社長 片山 豊が招かれている。
この2ケ月後の1995年(平成7年)9月、アメリカ合衆国 Z car club(ZCCA)会長のマッド・マイク・テイラーが日本国の片山 豊を訪ねて来ている。
片山 豊、マッド・マイク・テイラー両氏は、当時の日産自動車の役員に面会し、NISSAN FAIRLADY Zの販売継続を嘆願したのである。
この時、日産自動車の役員として対応したのが、当時の開発担当副社長 塙 義一(後の日産自動車社長、カルロス・ゴーンに日産自動車 社長の座を譲った氏)だった。
片山 豊、マッド・マイク・テイラー両氏は、塙 義一に対し、「NISSAN FAIRLADY Z("Z car")は、これまで日産自動車に多大な貢献をして来た。 これからもそうに違いないだろう。 NISSAN FAIRLADY Z("Z car")の販売中止は見直して欲しい。 ただし、今のNISSAN FAIRLADY Z("Z car")は高過ぎる。 昔、初代 S30型が発売された時の様な、誰にでも買える値段にして欲しい。」
この片山 豊、マッド・マイク・テイラー両氏の嘆願にも関わらず、NISSAN FAIRLADY Zの対米輸出は中止された。
これには、昔から日産自動車 首脳陣と折り合いが悪かった、片山 豊を遠ざけようとする日産自動車 首脳陣の思惑が有ったのかも知れない・・・。
同時期に、アメリカ日産を立ち上げた片山 豊が築き上げて来たDATSUNのブランド名も消滅させ、NISSANのブランド名に絞った対米輸出戦略が動き出す事にもなっている。
しかし、日産自動車のスポーツカー開発が消滅した訳ではなかった。
新しいFR車用プラットフォームが、1996年(平成8年)誕生する。
後にNISSAN SKYLINE V35型に使われて有名になったF.M.プラットフォームである。
このF.M.プラットフォームのプロジェクトに関わっていた第一車両開発部車両設計課 水野 和敏、商品本部 湯川 伸次郎、その上司 大竹 良次は、次に新型スポーツカーの開発を始める事となった。
NISSAN SILVIA S14型をベースにした直列4気筒エンジンを持つプロトタイプが完成した時、NISSAN FAIRLADY Zの生みの親 片山
豊に試乗してもらう。
片山 豊は、試乗を追えプロトタイプから降りると、「これだ。 "Z car"だよ。 これで良い。 あまり大きくするな。 直ぐに出せ。」と言っている。
ところが、日産自動車に最大の危機が訪れる事になる。
NISSAN FAIRLADY Z 1997 Prototype
NISSAN FAIRLADY Z 1997 Prototype
NISSAN FAIRLADY Z 1997 Prototype
NISSAN FAIRLADY Z 1997 Prototype
NISSAN FAIRLADY Z 1997 Prototype
NISSAN FAIRLADY Z 1997 Prototype
NISSAN FAIRLADY Z 1997 Prototype
1997年(平成9年)、アメリカ日産は赤字に転落する。
翌年 1998年(平成10年)には、日産自動車 本社の経営危機さえ囁かれ始めていた。
時代は、ダイムラーベンツとクライスラーの合併が実現した年でもあった。
日産自動車にも不安が走った。
日産自動車は、1999年初め、日本国 産業再生機構に経営の危機を乗り切る材料を求めたが却下され、独自で再起する様に求められた。
続いてダイムラークライスラー社との資本提携の話が持ち上がるが、こちらもダイムラークライスラー社の一方的な乗っ取りとも取れる資本提携案に見送る事となった。
アメリカ日産の首脳陣も、日産の持ち味とは何かについて真剣に討議を始める。
そして出た結論は、「日産自動車を象徴するクルマはNISSAN FAIRLADY Zである。 NISSAN FAIRLADY Zが無ければ、日産自動車はPICKUP-TRUCKメーカーと思われても仕方がない。」
NISSAN FAIRLADY Z、その復活に向けての動きが本格的に始まったのはこの時だった。
アメリカ日産の首脳陣は、先に開発したプロトタイプをアリゾナのテストコースに持ち込んで、ディーラーや"Z car club"のメンバー、ジャーナリストに向けた試乗会を開催した。
ところが、プロトタイプの走りもスタイルも良いのに、評判は今ひとつだった。
その理由はただ一つ。 「NISSAN FAIRLADY Z("Z car")は6気筒エンジンでなければならない。 4気筒エンジンはNISSAN FAIRLADY
Z("Z car")とは呼べない。」
帰国した日産自動車 商品本部 湯川 伸次郎は企画を一から練り直した。
新型F.M.プラットフォームにVQ35DE型エンジンを組合せた。
しかし、この時点でこのクルマは、NISSAN FAIRLADY Zになるか、NISSAN GT-Rになるか決まってはいなかったと言う。
一方、アメリカ日産は、日産自動車 商品本部 湯川 伸次郎のプロトタイプとは別のプロトタイプを独自に製作していた。
このプロトタイプ開発の中心になったのはN.D.A.(ニッサン・デザイン・オブ・アメリカ)で、これが1999年(平成11年)1月の世界3大モーターショーの1つ、デトロイトショーに登場すると各方面に大反響をもたらした。
この1999年(平成11年)1月のデトロイトショーで発表されたプロトタイプが、NISSAN FAIRLADY Z 1999 Conceptである。
この2ケ月後の1999年(平成11年)3月27日、日産自動車はルノーとの資本提携を発表した。
その直後、デトロイトショーでの大反響を肌身に染みて感じていた、アメリカ日産 社長 中村 稔は、当時 日産自動車 社長になっていた塙 義一に「NISSAN FAIRLADY
Z("Z car")復活」の確約を取り就けている。
この瞬間に、NISSAN FAIRLADY Zの復活が決定した。
1999年(平成11年)9月、カルロス・ゴーンが日産自動車 最高執行責任者として日産自動車の指揮を取る事になった。
日産自動車の社内での取り決めに関しては、日産自動車 前社長 塙 義一が決断したことは覆さないと言う取り決めが出来ていた為に、NISSAN FAIRLADY Zの復活は追認されている。
カルロス・ゴーンは、その後 日産自動車 最高経営責任者となり、名実共に日産自動車の社長に就任する事となる。
カルロス・ゴーン自身も、NISSAN FAIRLADY Zの復活に積極的だった。
カルロス・ゴーンは、日産自動車再建の鍵がNISSANブランドの復活にあり、それを代表するクルマこそがNISSAN FAIRLADY Zと、NISSAN GT-Rだと考えていた.。
カルロス・ゴーン自身、北米ミシュランに在籍していた30歳台にNISSAN FAIRLADY Z 初代 S30型(240Z)に憧れ乗っており、その価値を充分に認識していた。
カルロス・ゴーンは、NISSAN FAIRLADY Z 生みの親と呼ばれる片山 豊を新型 NISSAN FAIRLADY Z 開発プロジェクトの顧問として迎え、硬い握手を交わし、「これからです・・・」と本格的に新型 NISSAN FAIRLADY
Zの開発プロジェクトを始動する。
日産自動車 社内でNISSAN FAIRLADY Z復活が正式決定した後、日米欧でデザインコンペが実施され、アメリカ案が採用された。
NISSAN FAIRLADY Z 1999 Conceptとは、ヘッドライトの形状がかなり異なり、フェンダーの張り出しが大きく、より迫力が増している。
日産自動車 社長 カルロス・ゴーンも、NISSAN FAIRLADY Zの成り行きが大いに気になるらしく、通常はボディーデザインに関するミーティングを仕切るのは中村
史郎だが、NISSAN FAIRLADY Zだけは、カルロス・ゴーン社長自らが仕切っていた程であった。
また歴代のNISSAN FAIRLADY Zが、そのラインナップとしてに2×2シーターを追加していたのに対し、NISSAN FAIRLADY
Z Z33型は2シーターのみの設計となった。
クルマの運動性能とプロポーションで決めて行くと、ホイールベースがNISSAN SKYLINE V35型よりも200ミリ短くなる。
中途半端なクルマを作るべきでないと言う考えから、2×2シーターは設計の段階から外されている。
これについては、日本国内の営業から猛反発を受けている。
日本国内では70%が2×2シーターだった為であるが、アメリカ合衆国では80%が2シーターだった。
NISSAN FAIRLADY Z 最大の市場はアメリカ合衆国・・・。
結果は明らかだった。
2000年(平成12年)1月には、アメリカ合衆国のデトロイトショーにプロトタイプが出品され、日産自動車 社長 カルロス・ゴーンは、「NISSAN FAIRLADY
Z("Z car")復活」を高らかに宣言した。
その後、ボディー細部の変更が加えられた他、インテリアは全てがて日本国で設計されている。
運転席回りのきめ細かい機能性は、日本国デザインチームの得意技だったからだ。
ほぼ完成の域に達したNISSAN FAIRLADY Z Production Modelは、2001年(平成13年)10月に開催された東京モーターショーに出品された。
Prototypeとしてではなく、Production Modelとしての出品であった。
NISSAN FAIRLADY Zの最大の市場がアメリカ合衆国とは言え、NISSAN FAIRLADY Zは やはり日本車である。
NISSAN FAIRLADY Z 2001 Production Model 開発スタッフとしては、どうしても日本国の晴れ舞台 東京モーターショーで、自信作を発表したかったのだと言う。
〜〜〜NISSAN FAIRLADY Z 5th. より抜粋・・・〜〜〜