1900年(明治33年)1月1日、父 好水、母 やつの次男として生を受ける。  本籍地は、岐阜県加茂郡八百津町八百津。

八百津町で幼少時代を過ごし、父 好水の仕事の関係で、三重県や名古屋市で生活する。

1917年(大正6年)、通知簿 全甲の優秀な成績で愛知県立第五中学校を卒業。

父 好水が”杉原 千畝”を医師にしたいとの希望により京城医学専門学校を受験するが、英語教師になる夢を捨てきれない”杉原 千畝”は白紙答案を出し不合格となる。

1918年(大正7年)、父 好水の意に反し、早稲田大学高等師範部英語科予科に入学。  しかし、父 好水の怒りを買い、仕送りを得られず授業料の支払いにも困るほど生活が苦しくなっていった。

1919年(大正8年)、大日本帝国外務省の官費留学生に合格し、早稲田大学を中退。  中国のハルピンに派遣され、ロシア語を学び始める。

1924年(大正13年)、大日本帝国外務省書記生として採用され、日露境界学校に留学する。

ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)に満州国外交部事務官に転じる。

満州国外交部では、政務局ロシア科長兼計画科長(課長職に相当)として、ソビエト社会主義共和国連邦との北満州鉄道譲渡交渉を担当し、その譲渡金を当時の金額で約4億5000万円値下げさせている。

1935年(昭和10年)、満州国外交部を退官。  その後、幸子と結婚し、大日本帝国外務省に復帰している。

1937年(昭和12年)、念願であったモスクワ大使館に赴任する予定であったが、ソビエト社会主義共和国連邦側が”杉原 千畝”の赴任を拒絶し、入国自体も認めなかったため、近隣のフィンランドのヘルシンキ日本大使館に赴任する。

1939年(昭和14年)、リトアニアの首都 カウナスに日本領事館の開設を命じられ日本領事館領事代理となる。



ナチス・ドイツがポーランドへ侵攻し併合すると、ナチス・ドイツはユダヤ人に対しホロコーストを開始する。

このホロコーストから逃れる為に、多くのユダヤ人が中立の立場を保っていた隣国のリトアニアに国境を越え逃亡してきた。

1940年(昭和15年)の夏・・・。

ソビエト社会主義共和国連邦がリトアニアを併合すると発表。

リトアニアにソビエト社会主義共和国連邦の軍隊が侵攻を始めると、当時 ソビエト社会主義共和国連邦はナチス・ドイツと不可侵条約を結んでおり、ユダヤ人は捕らえられ、ナチス・ドイツに引き渡されるとされた。

ユダヤ人は、ソビエト社会主義共和国連邦の軍隊が侵攻する前に、リトアニア国内の各国の領事館・大使館からビザを取得し、リトアニアから脱出しようとしていた。

ソビエト社会主義共和国連邦は、各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めた。

当時、大日本帝国はソビエト社会主義共和国連邦と不可侵条約を結んでおり、国際法上 大日本帝国の領土とされる日本領事館は業務の追行を続けていた。

ユダヤ難民たちは、業務を続けていた日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。

当時、日本政府はユダヤ人に対する中立的な政策を公式に取っていたとは言え、通過ビザの発給を受ける為には十分な旅費を備える等、規定の条件を満たす事を要求していた。

これは外務省ユダヤ難民取り扱い規定により、表向きはユダヤ難民を他の難民と公平に扱う中立さを装いつつ、ナチス・ドイツと軍事同盟を結んでいた大日本帝国は、ビザの発給資格を異常に高くする事で、ユダヤ難民を事実上締め出す事を狙っていたからである。

ユダヤ人難民のほとんどはこの受給資格を欠いていた為、”杉原 千畝”は大日本帝国 外務省に伺いを立てるが、発給は許可されない。

1940年(昭和15年)7月18日、”杉原 千畝”は大日本帝国 外務省に緊急のビザ発給許可要請をするが、翌日に届いた返答は「ビザの許可は内閣改造中ゆえ発給できない」と言うものであった。

大日本帝国で新内閣が発足後、外務大臣 松岡 洋右に、直接 人道的なビザ発給の許可要請を再度行う。

1940年(昭和15年)7月23日、外務大臣 松岡 洋右が直々にヨーロッパ各国の大使館・領事館に「難民へのビザ発給は許可出来ない。」と言う通告が発せられた。

それは”杉原 千畝”にとっては事実上の最後通告であった。

また同時期、ソビエト社会主義共和国連邦から、リトアニア併合に伴う日本領事館の閉鎖通告がなされていた。

1940年(昭和15年)7月25日、こうした大日本帝国の政府方針、大日本帝国 外務省の指示に背いて、”杉原 千畝”は日本通過ビザを要件の整わないユダヤ人達にも、半ば無制限にビザ(査証)を発給することを決断。

ソビエト社会主義共和国連邦政府や大日本帝国 本国から、再三のリトアニアからの退去命令を受けながらも、”杉原 千畝”と幸子夫人はドイツの首都 ベルリンへと旅立つ9月5日までの約1ヶ月余り、ユダヤ人に対してビザを書き続けたとされる。

その間発行されたビザの枚数は番号が付され記録されているものだけでも2139枚となっている。

しかし、次第に日本領事館の閉鎖日が近付くと共に作業の効率化の為、途中から番号を記録するのを止めてしまったと言われている。

その為、実際には記録に残っているビザ以外にも数千枚のビザ(査証)や渡航証明証が発給されたと言う説もある。

また、1家族に付き 1枚のビザで十分であった為、家族を含めて少なくとも6000人ものユダヤ人のリトアニアからの国外脱出を助けたとされている。

途中ビザに貼り付ける印紙が無くなってしまったが、”杉原 千畝”は自らの職権により「出国の為の領事特別許可証(査証)」の発行を行い、ソビエト社会主義共和国連邦による”杉原 千畝”自身への退去指示の期限ぎりぎりまで、更に多くのユダヤ人をリトアニア出国させた。

領事特別許可証(査証)によるリトアニア出国者は多数に上るが、発給記録が残っていない為、人数は定かではない。

1940年(昭和15年)8月29日、リトアニアの首都カウナスに開設した日本領事館を閉鎖。

”杉原 千畝”一家は、リトアニア出国までの日をリトアニア カウナスのホテルに停泊するが、このホテルにおいても領事特別許可証(査証)の発給を続けた。

1940年(昭和15年)9月5日、”杉原 千畝”一家はリトアニアを出国するが、領事特別許可証(査証)の発行は、ベルリン行き国際列車の出発寸前まで、リトアニア カウナス駅ホームで続けられた。




”杉原 千畝”から、リトアニアから出国し大日本帝国を通過するビザ(査証)を受けたユダヤ人達は、その後、リトアニアを出国し、シベリア鉄道へ乗ってウラジオストック港経由で、日本国の敦賀港へ上陸を果たしている。

敦賀港へ到着したユダヤ人達は、列車に乗りユダヤ系ロシア人のコミュニティがあった神戸へと辿り着く。

その内、1000人程のユダヤ人達は、アメリカ合衆国やパレスチナへと神戸港から出航する船で向かった。

大日本帝国とアメリカ合衆国によって太平洋戦争が勃発し、大日本帝国からアメリカ合衆国への渡航が不可能になった。

ビザ(査証)での滞在期限が切れたユダヤ人達は、当時ビザが必要なかった中華民国の上海に移動せざるを得なかった。

上海にもユダヤ人難民の大きなコミュニティ(上海租界)があり、そこでユダヤ人たちは大日本帝国が降伏する1945年(昭和20年)まで過ごす事となる。

上海では、ドイツを真似てユダヤ人ゲットーが作られ、上海のユダヤ人達はそこに収容されることになった。

環境はヨーロッパのゲットー同様苛酷なものであったが、当然ながら日本人・中国人はドイツのような峻烈なユダヤ人迫害は行わなかった。

一方、彼らが脱出したリトアニアは、その後 ナチス・ドイツとソビエト社会主義共和国連邦で独ソ戦が勃発し、1941年(昭和16年)にナチス・ドイツの猛攻撃を受け、ソビエト社会主義共和国連邦軍は撤退。

以後、1944年(昭和19年)の夏に、再びソビエト社会主義共和国連邦軍によって奪回される迄、ナチス・ドイツの占領下となる。

この間のユダヤ人犠牲者は20万人近くに上るとされている。

また、ソビエト社会主義共和国連邦領内でも、多数のユダヤ人難民がシベリア等の過酷な入植地に送られ亡くなっている。

1948年(昭和23年)5月14日、アメリカ合衆国が主導の下、ユダヤ人による国家 イスラエルが建国され、独立を宣言した。



”杉原 千畝”は、リトアニア退去後、ドイツの首都ベルリンを訪れた後、1940年(昭和15年)にチェコスロバキアの首都プラハにある日本総領事館、1941年(昭和16年)に東プロイセンのケーニヒスベルクにある総領事館、その後 1946年(昭和21年)までルーマニアの首都ブカレストにある公使館等、ヨーロッパ各地を転々とし、各職を歴任している。

第二次世界大戦、及び太平洋戦争の終結後、ルーマニアの首都ブカレストにある公使館で、家族と共にソビエト社会主義共和国連邦に身柄を拘束され、1年間の収容所生活を送っている。

1947年(昭和22年)に日本国へ帰国。

神奈川県藤沢市に住居を据えるも、日本国 外務省から、リトアニアの首都カウナスにあった日本領事館でのユダヤ人に対するビザ、査証の発給の責任を負わされる形で、名目上リストラに伴う解雇通告を受ける。

外務省退官から暫く、息子を白血病で失い、義理の妹も亡くなる等、家族の不幸に苛まれる。

その後は東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院教授、科学技術庁、日本放送協会国際局等、主に語学力を活かした職に就き活躍した。

1960年(昭和35年)、川上貿易 モスクワ事務所長。

1964年(昭和39年)、蝶理へ勤務。

1965年(昭和40年)からは、国際交易 モスクワ支店代表等、再び海外生活送った。

1968年(昭和43年)の夏、長年”杉原 千畝”の所在を探していた、”杉原 千畝”のビザの発給を受けた元ユダヤ人難民の1人、ニシュリ氏と在日本 イスラエル大使館で28年ぶりに再会を果たしている。

翌1969年(昭和44年)、イスラエル宗教大臣 バルハフティク氏より勲章を受ける。

1975年(昭和50年)、国際交易 モスクワ支店代表を退職して日本に帰国。

1985年(昭和60年1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人としてでは初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞している。

同年11月、イスラエル、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われた。

1986年(昭和61年)7月31日、自宅のある神奈川県鎌倉市の病院で、心臓病の為 永眠。  享年86歳。



”杉原 千畝”の言葉・・・

「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。  私には彼らを見殺しにすることはできなかった。」

杉原 千畝

第二次世界大戦中、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人に対し、日本国を通過する為の通過査証、通過ビザを発給し、6000人にものぼるユダヤ人の命を救った。

日本のシンドラーとも呼ばれる。

杉原千畝記念館
(岐阜県加茂郡八百津町ホームページ)

リトアニア杉原記念館

余白